俳句結社「藍生」***60歳未満の女性の会


by aoi-asaginokai
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カテゴリ:俳句徒然( 6 )

俳句αアルファ

俳句αアルファの12-1月号に、「特集高田正子の世界」が掲載されています。
自選200句が、うなづけて心にしみています。
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by aoi-asaginokai | 2014-11-15 00:03 | 俳句徒然 | Comments(1)
 明けましておめでとうございます。
 今頃のご挨拶になってしまい、たいへん申し訳ありません。

昨年の11月から家の大規模改築に入りまして、それらの野暮用で右往左往しておりました。長い間のご無沙汰、失礼いたしました!

その間の、高田さまのステキなご提案や明美さんの農暦、楽しく拝読いたしました。
明美さんのどんど焼き、炎が美しいですね!

高田さま、ぜひ皆さまで盛岡に吟行旅行にお越しくださいませ!

3月中なら白鳥が見られます。少しまだ寒いと思いますが。
4月には柔らかな山々の芽吹きや辛夷の花、片栗の花、まんさく。
後半なら石割桜、そして梅、桜、桃などが一斉に咲き出します。
6月はチャグチャグ馬っこ。新樹。
7月は町の真ん中の中津川に鮎がきます。

話し出すときりがありません。
おいでになられる時にはご連絡いただければ、会場等の手配はやらせていただきます。
あ、私は6月が誕生日で60才になるので浅黄の会の資格はそこまでとなります。
でも、その後でも手配等はお任せくださいませ!


さて、今回は、俳句との出会いのささやかな思い出を書かせていただきます。

 流れゆく大根の葉の早さかな   虚子

俳人なら知らない人はいないこの句。
俳句を始めたばかりの頃、名句を読むという初心者向けの本で出会いました。
虚子の何たるかも知らない全くの初学の頃。

しかしこの句を読んだとたん、突然、指先を冷たい水に入れたような気がしました。
目の前に流れる川。
今まさに大根の葉が流れてきたその冷たい川に手を浸したような・・・
指先が冷たく痺れているような感覚。
それはあまりにもリアルな感覚で、びっくりしたというより呆然。
こんな感覚を引き起こす俳句って何なんだろう・・・。

これが、私が俳句に憑りつかれた原点です

ただ、その後しばらくしてこの句を読み返しても、その時のリアルな感覚に至ることはありませんでした。
感動は残っているのですが・・・。

小林秀雄がエッセイ「モーツアルト」の中で、大阪の道頓堀を歩いていた時、突然モーツアルトのト短調シンフォニイの有名なテーマ曲が頭の中で鳴ったというエピソードを書いています。
そして今はその時何を考えていたかも忘れ、その時の曲のレコードで聴いてもその感動は還ってこなかったとあります。
私もそれに似たような感覚です。
今でも惹かれる句であることは確かなのですが、あのリアルな感覚は還ってこない・・・。
あれはあの時の自分にしか感じ得なかったその場限りの感覚なのかもしれません。

ものの光消えざるうちに言い止むべし

その時は確かにその句の発する「ものの光」に触れていたのだろうと思います。
その思いは、俳句に向かうときいまだにそっと励ましてくれています。
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by aoi-asaginokai | 2014-01-30 17:35 | 俳句徒然 | Comments(9)
ずいぶんとご無沙汰をしておりました。
皆さまお元気でお過ごしのことと思います。

今朝、岩手山に初冠雪がありました。
急に寒くなったなぁと思っていましたが、西空の雲間から白くなった山頂が現れました。まだ麓は紅葉に彩られているのに、いつもよりずっと下の方まで白くなっていました。
今頃、いつも思い出す石川啄木の歌があります。

  神無月岩手の山の初雪の眉にせまりし朝を思ひぬ

この歌から伝わる冷ややかな空気。まさに今朝の空気でした。つい先日までは、虫の声が盛んに聞こえていたのに・・・。
そういえば、虫がすだく頃に思い出す啄木の歌があります。

  岩手山秋は麓の三方の野に満つる虫を何と聞くらむ
  霧深き好摩の原の停車場の朝の虫こそすずろなりけれ

秋の岩手山は清々しく雄大。特に渋民のあたりから見る姿は一番の美しさではないかと思います。秋も中頃になると、麓の方から紅葉が上りはじめるのが遠目にも見えます。この麓の虫たちの大合唱は岩手山をより雄々しく感じさせます。
啄木の歌は抒情的なものが多いのですが、私は自然を詠んだ歌の方に魅力を感じます。

啄木の歌を諳んずるたび、父を思い出します。子どもの頃よく父の膝の上で聞きました。父も短歌を詠んでおり、地方の新聞に投稿し時々掲載されたりしていました。ただ、子どもの頃父から聞いた啄木の歌はなんだか辛気臭い・・・という印象でした。

  働けど働けどなほわが暮らし楽にならざりぢっと手を見る
  たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず

三男だった父は、戦死した長男にかわり母親を呼び寄せて、6人の子どもを抱えて会社員として懸命に働いていました。これらの歌はその頃の父の心を重ね合わせることができるものだったのだろうと思います。

私は18才の時、盛岡に来ました。その時初めて不来方城址に上りました。二の丸から見る盛岡の町は、東西南北をぐるりと山々に囲まれ、その山並みグッとが迫ってくるように見えました。太陽は東の北上山脈から登り、奥羽山脈に連なる岩手山の方へと沈みます。いい街だなと思いました。不来方城址にはかの有名な歌碑があります。

  不来方のお城の草に寝ころびて空にすはれし十五の心

尊大さと繊細さ、傲慢さと卑屈な思いと振れ幅の大きい啄木ですが、澄みわたるような歌が心を捉えます。

  馬鈴薯のうす紫の花に降ふる雨を思へり都の雨に
  愁ひ来て丘にのぼれば名も知らぬ鳥啄めり赤き茨の実
  函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
  みぞれ降る石狩の野の汽車に読みしツルゲエネフの物語かな

啄木の歌を読むとき、旅にでも出るような心地がします。自分自身の中にある原風景だったり、憧れの風景だったり、そんなものに出会う旅。過去の自分、かつてどこかへ置き忘れてしまった感覚。そういうところへ連れて行ってくれます。啄木の歌を入り口にして自分自身を旅して、またその歌に戻り我に返る、そんな気持ちにさせられます。
かなり以前に新聞のコラムで読んだ韓国の詩人、高銀(コウン)の言葉を思い出します。

「詩のことばは生きとし生けるものの中にある。山や水、風の中にも。私はそれを自分の体に呼び寄せてため込み、再び出してゆくだけ。花咲く野を舞うチョウのように、自然の中にあるものです。詩が私を通して多くの人に伝わっていく。詩人とは、通路のような存在といっていい。世界にはまだ多くの傷ついた魂がある。その一つ一つに寄り添って慰める。詩の役目です。」

啄木そして啄木の歌は私にとっては、まさに通路のようなものです。そして、私の俳句もまた、通路のようであったらいいなと思うのです。
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by aoi-asaginokai | 2013-10-13 23:52 | 俳句徒然 | Comments(6)
ずいぶんとご無沙汰をしてしまいました。
皆さま、お久しぶりです。

こちらはもう日中は25度にもならず、肌寒い日が続いています。昨年とは大違い。
関東の猛暑もまだまだ続いているというのに・・・。日本列島は長いですね。

さて、藍生誌9月号、あゝ松島や松島大会の記録を読み終えました。
行きたかったな・・・という思いが拭いきれませんが、今は辛抱の時。
松島大会を語られている皆さんのリポートと句会結果をじっくりと読ませていただき、参加したような気持ちにさせていただきました。

臨場感溢れる、リポートの数々には、震災の爪痕、震災体験、大会準備のこと、逝かれてしまわれた方のこと、そして松島のもつ地霊のようなもの・・・などなど・・・
様々なことが縦糸横糸となり、織りあがった一枚の布のように感じられました。

圧巻は、みなさんの句。
まるでそこに居たかのように、松島の空気が伝わってきました。

海風、青葉風、様々な風が心地よく吹き渡っていたんだな・・・
その風に出会って、ひとりひとりの過去未来が行き来してこんな句になったんだな・・・
個人的な過去は分からなくても、伝わってくるところが不思議。
これだから俳句は止められない・・・

参加されなかった皆さんのご感想などもこの場で交流しても面白いのでは・・・と思いました。
そして、勝手ながら、浅黄の会の皆さんの、惹かれた御句を書かせていただきます。
旅ごころをそそられました。

 六月の夜風のいろの旅衣       髙田 正子
 万緑のほとりに船の着きにけり    権瓶 玲子
 流さるる音かとおもふ明易し      名取 里美
 おのおののこころに寄せる卯波とも  高浦 銘子
 一の橋二の橋夏の川乾く        菅原 有美
 空梅雨のこれと決めたる旅の靴    荻野 友佑子
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by aoi-asaginokai | 2013-08-31 17:36 | 俳句徒然 | Comments(3)
盛岡はいつまでも涼しい日が続いています。
それでも蜩が鳴きだし、これが梅雨蜩!と合点しながら聞いています。
いつも聞いてきたはずなのに・・・今さらながらの苦笑いです。


さて、盛岡大会の思い出をもうひとつ。

盛岡大会の翌日の6月15日は「チャグチャグ馬っこ」の開催日でした。
その日は月曜日というのに、たくさんの藍生の皆さまが残ってご覧になってくださり、とても嬉しく思いました。

「チャグチャグ馬っこ」は、今は6月第2土曜日開催となりましたが、その当時は必ず6月15日と決まっていました。農耕に従事する馬たちへの感謝と無病息災を祈願した行事で、国の民俗無形文化財指定を受けています。別名「馬祭」、「蒼前祭」とも。
盛岡の隣の滝沢村の蒼前神社から盛岡八幡宮までの約15キロを、きらびやかな装束を身に着けた馬たちが歩きます。たくさんの鳴輪や鈴がチャグチャグと音を響かせ、道中の植田に映えて、清々しい初夏の風物として親しまれています。
乗り手は、広報で募集して決まった子どもたち。馬子の衣装をつけて馬上から手を振る姿がなんとも愛らしく、なかには馬上で寝入ってしまう子も。
途中、盛岡中心部の中津川の岸辺で馬たちを休ませるので、そこでは馬たちを間近に見ることができます。

  チャグチャグ馬っこ鈴の音色の風たちぬ  池元道雄(岩手歳時記より)

さて、盛岡のつどいは祭の前日だったため、馬が休む中津川原では草刈が行われていました。
それらを吟行したあとの句会に出された句を先生が添削なさいました。
それは水巻津花さんの句でした。(水巻さん、勝手に取り上げてごめんなさい!)

(原句) 馬通るためざうざうと草を刈る   
(添削) 馬通すためざうざうと草を刈る

目を見張る思いがしました。衝撃と言った方が正確かもしれません。
「通るため」と「通すため」。
たった一字の違いなのにこれほどの違いがあるとは・・・
報告、見たままの景から、一転して、この祭のために草を刈る人々の姿や心持ちまで想起させられて、俳句というものの底知れなさを見たような気がして身震いしました。今でも、その時の気持ちがありありと浮かんできます。

これも盛岡大会の忘れられない思い出であるとともに、俳句の世界の広やかさに魅せられた出来事でした。
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by aoi-asaginokai | 2013-07-21 17:18 | 俳句徒然 | Comments(0)
この春早期退職し、療養しながらの気ままな生活を送っている。ちょうどいいタイミングでこの浅黄の会に入れていただいた。これまでの来し方を振り返りながら自分と俳句の徒然を書いていきたいと思う。(ごくごく個人的な感覚のものになると思いますがお許しください。カテゴリ作ってしまいました)

さて、6月の松島大会はさぞかしいい大会だったことだろう。
芭蕉が笑うが如くと言った松島。
あの東日本大震災の際には、点在する島々が防波堤のような働きをして被害を少なくしてくれたという松島。
岩手からは遠くはないので夫と一緒に行ったことはあるが、俳句の仲間たちと行けばまた違った(もしかしたら私にとってほんとうの)松島に出会えたのではないかと残念な思いでいる。
また、東北での大会というのに参加できず、お手伝いもできず・・・
それもまたたいへん申し訳なく思っている。
皆さまの松島大会の感想などをお聞かせいただければと思う。

全国藍生のつどいといえば思い出すのは、平成10年6月の盛岡大会。
あの日はまさに滂沱の雨、雨、雨。
そんな中、青邨先生のお墓をお参りしたり、中津川原を散策したりと、いくつかの吟行コースで皆さまに盛岡を感じていただいた。
私は、大会会場兼宿泊地の繋温泉から望む岩手山の雄姿が好きだったので、それが見えないことが残念で仕方なく、繋温泉まで移動するバスの中で「生憎の雨で岩手山が見えず残念です。」というようなことを皆さんへお話しした。
そしてその日の句会で次の一句が廻ってきた時、私は思わず姿勢を正した。

 岩手山かくす青梅雨聴けとこそ  

杏子先生の御句であった。
もちろん私のバスの中の言葉に対しての句だと思ったのは私の勝手で、そんな説教じみた句として捉えたら先生にたいへん失礼なことである。私はただ、激しくまわりの景色も消し去るようなこの雨をそのようにとらえたことに驚愕した。この雨も賜りしもの。
雨の日は雨を、風の日は風を・・・
これが俳句のみならず生きていくときの心の置き処。
これまで何度も見聞きしていた言葉なのに感得していなかった自分・・・。

俳句を始めておよそ10年ほどたっていたが、俳句は心の有り様によって全く違うものを捉えるのだという当たり前のことを、今更ながら思い知らされた忘れられない一句である。
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by aoi-asaginokai | 2013-07-11 21:14 | 俳句徒然 | Comments(4)